昭和四十三年一月十九日 朝の御理解


 御理解二十一節の最後のところに、火が灯らねば世界が闇なりとおっしゃる。この火とはどうゆうものであろうか。世界が闇なりとは、私の心が闇なりの事である。私の家が闇なのである。皆さん、どうでしょうか。心の中に赤々と信心の火が燃えていますでしょうか。あなたの心に火が灯っておれば、一家中が有難い、おかげでおかげでとゆう雰囲気がなければならない。私は、その信心の火が心にとまるという事は、信心のおかげだと思う。そのおかげを皆さんが受けなければならない。
 私は、ここ四、五回必ず頂くのですけれど、意味が分からなかった。「柿食えば、鐘が鳴るなり法隆寺」柿食う事と、法隆寺とどんな関係にあるのであろうか。今日もやっぱりその事を頂くのですよ。で、私は、ある事を祈らして頂いているさなかに頂きましたが、それが分からないものですから、次の祈りを続けておりましたら、私の心耳に響いてくるのが、「この小便たれ!」とゆう厳しい声でした。いよいよもって分からん。そして、他の事のを祈っておった。小便たれは分からん事はない。小便とは小さい便と書いてある。御結界は勿体ないようですけれど、皆の共同便所である。皆が本当に自分の心に持ちかねる難儀な苦しい問題を持ち込んでくる所。そしてお取次を頂かしてもろうて、腹苦しかったのを、スキーッとしたように、先生、おかげ頂きましたと言って、皆が帰る。便所と同じだと思う。只、皆が使うのに、大便に使うか、小便に使うかとゆう事である。目先目先の小さい事に一生懸命うき身をやつしているのは小便であると思う。私が祈っている事、思っている事は、そんなに小さな事と思っていなかったのですが、けれども神様の目から見ると小さい、この小便たれとなってくるのである。
 柿食えば、柿は皆がもっている我情我欲。それに取り組むのが信心ですけれども、そうゆう我情我欲に取り組んで、皆さんがこのように寒中修業に取り組んで一生懸命お参りなさる。そして例えば、おかげを頂かんならんとゆうところから一生懸命信心になってくる。皆は、その自分の我情、自分の思い、ああありたい、こうありたいとゆう、その欲を満たしてもらいたい、そうゆう願い成就致しますようにとゆう願いに参ってくるのである。所謂柿食えばのところなのである。ところが、そこから鳴り響いてくるものは、何か「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」成程、法の響きとゆうか、天地の中にある?の法則、又は??の道、法の響きなり、今合楽の御広前に響きわたっているんだとゆう事です。人間が生きてゆく為には、本当に幸せになる為の天と地と人、天地人なのです。天と地と人とが一つになる事なのです。私達が法を曲げずに、法の掟に従っての生活。そこには天地と私共とが、一つになれる道があるのだ。それを法の道、そうゆう教えの道なのだ。そうゆう大変な事が、この御広前に朝晩、法の鐘の響きが鳴り渡っている。医者の見離された病人でございます。助けて下さい。どうにも出来ない金銭問題、人間関係のとうかつ?様々な難儀からおかげ頂きたいとゆう、言わば小便の信心から始まって、そのうちに心の面も開けてきた。心の眼が開かれてきた。本当にそうゆう事は問題じゃなかった、とゆう。
 昨日、秋永先生が幹部会の後、話をしておりました。朝、こうしてお参りさせて頂く。ずーっと御祈念さして頂き、お話を頂かしてもらっとりましたら、今このままお引き取り頂いても結構だとゆう心が開けてくる。教えとゆうものは、もう頂いたら、夕べに死すとも、とゆう境地である。この教えを頂いて、こう有難い教えを頂かしてもらって、こうゆう道を分からせて頂いたら、もうこのままお国替のおかげを頂いても文句はない。いや有難いとゆう気持が開けてくる。飴をもらわなければ、これをこうしてもらわねばというのではない。いやそうゆう信心から、こうして朝参りなどさしてもろうて、何かのきっかけで自分の心の中に開けてくるものがある。これは人間最大の重大時、それは天と地と人とゆう事である。天地の中に生かされておる私共、その御恩に対する報恩感謝の出来ていないのに、私共には、とてもとても、もう、成程、思う事があるが、お取次を頂いたら、言わばそれはもう捨てていくのだ。心配する事がある、不安になる時がある。こうありたいと願う、こうゆう、いっぱいのものは大小便所が、ここに揃うているのだから、ここに捨てて、そして、すっきりした心持ちをもって生きる事の喜び、有難さを頂き、所謂法の道、教えの道とゆうものを自分の心の中に頂いた教えに基づいた生き方の有難さとゆうのが分かってくる信心。ここ四、五日続けて頂いた事は、これであった。
 合楽のお広前で鳴り響いているもの、鳴り渡っているもの、それは法の道、教えの道である。一人一人の氏子に、どうぞ信心しておかげを受けてくれよとゆう切なる神の願いが響き渡っているのである。それが合楽のお広前だけじゃなくて、お互い、銘々、生活の現場に於いて、家庭に於い、日常生活に於いて、余韻を残すように、鳴り響いていくようなおかげになってくる時に、いよいよ神様の、それこそ満足される姿を見る、お顔を見る。そうゆうものを感じるような気がします。
 昨日、高芝さんがお夢のお届けをされるのに、石垣がある。そこを血みどろになって一生懸命昇ろうとしている。向うの方に富士山が見え、富士山を目指して登るんだけれども、?る前に一生懸命、焦りもがきしている。後から、ある信心のない我情我欲のいっぱいの方がついて来ている。富士山を目指す?々一家をあげて、本気で信心に打ち込ませて頂いて、学生会におかげ頂いている。盛昌君が一生懸命修業させてもらうようになって、家の中になんとはなしに信心の火が灯ってきた。夫婦の元に、一人の子供が本気で信心になってきた。そうすると、なんとなくおかげの序の口ではなかろうか。高芝さん、あんたもう富士山の裾野位来とるとよと言って話した事でしたが。そうゆう事が何とはなしに起きてくるのである。これに兄姉達が、本当に両親の信心についてきたら、やはり素晴らしいおかげになろうと話した事でした。信心の火が灯ってきた。自分の心が明るくなるだけでなく、家の中が明るくなってきた。信心の火がなければ世界が闇とおっしゃる。世が闇だとゆう事は、まず自分の心が闇だとゆう事、私の家庭の中が闇なのだ。そこに不平不足が生れてくる。
 生き生きして信心の火が灯っているところには明るさがある。家中が明るくなる事で、世界が明るくなるというおかげになっていく。合楽に参ってくる人はさい、お広前が本当に、それこそ法隆寺の鐘が鳴り渡っているように、その響きに触れさせてもらう、聞かせてもらう事は有難い。
 今、北野の?口から、日吉さんとゆう青年が参ってきている。本当に、ある願いの為に学生時代おかげを受けた人であるが、昨日ここでお届けされる。毎朝、お参りさせて頂くようになって、有難いとゆう事が分かってきた。皆さん、どうぞ信心が有難いとゆう信心にならしてもろうて、その有難いものが鳴り響いていく信心が、風のように、ここだけではない、自分の家庭の上に、生活の現場の上に於いて、鳴り響く。これこそ余韻を残して鳴り響く法隆寺の鐘のような響きになってこなければ、神様のお喜びになってこないと思う。神様に喜びが頂ける信心、本当に世界が明るくなる、そうゆう願いの元に信心の稽古をされるとゆう事が、お道の信心である。本当に手のひら返すようなおかげ、これも必ずあります。しかし、これだけが望みであれば、それは小さい。それこそ、この小便たれ??となってくるのではないですか。どうぞ。